アラビア語通訳者、ニュースキャスターを経て政治家、そして初の女性東京都知事となった小池百合子さん。
小池百合子さんの母親・小池恵美子さんは大正生まれの「粋で肝っ玉の太い」母親だったと小池百合子さんは語っています。
初の女性東京都知事を生み育てた小池恵美子さんとはどういった方だったのか、調べてみました!
小池百合子の母はどんな人?
小池百合子さんの母親は、小池恵美子(こいけ・えみこ)さんと言いました。
前述の通り、大正生まれで粋な方だったようです。
小池百合子の母・小池恵美子はお嬢様だった!?
小池恵美子さんは1925年、大正14年生まれ。
兵庫県赤穂市(あこうし)で有名な「赤穂の塩田」の地主であった小川家出身です。
裕福な暮らしをされていたのは間違いないでしょう。
また、その当時で赤穂高等女学校に通い卒業されています。
当時経済的に余裕がないと女学校に進学し卒業するのは難しかったのではないかと推測します。
お嬢様であった小池恵美子さん、必ずしも幸せな幼少期ではなかったそうです。
小池恵美子さんの父親は放蕩の挙句に若死にし、恵美子さんは残された母の苦労を見て育ったそうです。
小池恵美子さんの青春時代は戦時中。
ご自身が青春時代を戦時中に過ごした経験から、
「好きなことができるのだからそれをしないなんて駄目よ」
とよく小池百合子さんに言っていたそうです。
その後は実業家の小池勇二郎さんと結婚し、兵庫県芦屋市に住まいを構えることに。
しかし小池勇二郎さんは事業そっちのけで政治活動に熱を上げ振り回されながら、専業主婦として一男一女を育てられました。
キャスターから政治家になる娘・小池百合子さんを晩年応援し、心身ともに支えた存在でした。
小池百合子の母の肝っ玉ぶりは?
エジプト留学にも大賛成!
小池百合子さんは1971年3月、甲南女子高校を卒業されました。
同年1971年4月には、関西学院大学社会学部(偏差値:57.5~65)に入学。
しかしある日、「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」旨を伝える新聞記事を目にします。
それがきっかけでアラビア語通訳を目指すことを決意。
小池百合子さんは既に熟練者がたくさんいる英語通訳をあきらめ、アラビア語通訳を目指してエジプトで学ぶ決意を両親に伝えました。
すると母・小池恵美子さんは、
「あら、いいチョイスだわ」
と大賛成。
小池百合子さんは1972年6月にエジプトのカイロ大学に入学し、1976年10月に同大学文学部社会学科を卒業したとされています。

出典:Wikipedia
カイロ大学で常用されているアラビア語は「世界で一番難しい言語」とも言われており、習得するのはかなり大変と言われています。
また、カイロ大学を卒業するのには7年もかかる人もいると言われている程。
「人と同じじゃつまらない」
が口癖だったという小池恵美子さん。
そんなところに躊躇なく娘の背中をぽんっと押せる母親は肝っ玉が据わっていると思います。
また、そんなカイロ大学に通常の4年で卒業した小池百合子さんも、母・小池恵美子さんのように肝が据わっているのではないでしょうか。
日本で専業主婦していたのにカイロで日本料理店を開業!
小池百合子さんがカイロ大学に留学中に母・小池恵美子さんは旅行でエジプト・カイロを訪れました。
そして旅行中に突然小池百合子さんに、
「百合ちゃん、私ね、カイロで日本料理店を開こうかと思うんだけど」
と、打ち明けたそうです。
その理由というのが、当時エジプト・カイロ唯一の日本料理店ですき焼きを食べた際に白菜ではなくキャベツが使われていたことが気に入らなかったからだと小池百合子さんんは当時のことを語っています。
「カイロに一軒だけあった日本料理屋で、大好きなすき焼きを注文しました。あちらでは白菜が手に入りにくく、代わりにキャベツを使っていました。それがどうしてもお気に召さなかったらしく、『これはすき焼きじゃない』ってすごい剣幕で(笑い)」
引用:介護ポストセブン
「ずっと専業主婦で英語もアラビア語もわからない母・恵美子さんが、海外で飲食店を経営するなんて無理に決まってる」と、誰もが思っていました。
しかし不安と反対の声をよそに、
「これまでやりたいことがあっても何もできなかったんだもの。これからは好きなことをやらせてちょうだい」
「あら、そんなの、やってみなくちゃわからないでしょ」
と、母・小池恵美子さんは本気で決意は固かったそうです。
そして1年後、カイロの高級住宅街モハンデシーン地区に、日本料理店『なにわ』はオープンしました。
もの凄い行動力と実行力です!
「やってみないと分からない」と言ってもなかなか知らない国で起業をしようなんて思えないです。
肝が据わっていたからこそ有言実行できたのでしょうね。(;^_^A
カイロでは最も有名な日本人だった?!
小池恵美子さんが開店した日本料理店はスタートから好調でした。
おすすめユーザーに小池百合子さんがありふと思い出しました。エジプトのカイロで彼女の母親が「なにわ」という日本料理屋を営業しており、よく利用ました。母親は皺が多いだけで顔が百合子女史にそっくりでした。もう亡くなられたと思いますが!?ご冥福を・・・
— 魔太郎 (@matarou935) September 10, 2012
なんとイラン革命で国を追われたパーレビ元国王家族などのようなVIPもお忍びで来店していたそうです。
エジプト・カイロでも日本の味が認められたとは相当な努力と根気が無いとできなかったと思います。
肝が据わってます!
実に20年程日本レストランを経営し、惜しまれつつも閉店し日本へと帰国されました。
当時、カイロで最も有名な日本人は間違いなく小池恵美子さんだった。
引用:介護ポストセブン
と言われていますが、見知らぬ地で20年も日本料理店を経営し、元王族だったVIPまで虜にするレストランを経営していただけに、頷けますね。
晩年も豪快で肺がんになってもタバコ!
母・小池恵美子さんは普段のおしゃれにも気を遣っていて、体調が悪くなる直前まで高いヒールを履き、背筋をしっかりと伸ばして歩く方だったそうです。
そして小池百合子さんにも、
「背筋をしっかり伸ばしなさい」
と、良く注意していたのだとか。
2012年の初頭に体調が悪くなり、検査入院を行ったところ「肺がんのステージⅡA」ということが判明。
肺がんの理由というのはタバコでした。
母・小池恵美子さんは大のタバコ好き。
入院先の病室で豪快にタバコをふかし、大目玉を喰らって追い出されたこともあるほどだったのだとか。
肺がんの診断を受けたあと、母・恵美子さんと娘・小池百合子さんは治療の可能性について話し合ったそうです。
どんな治療も身体にダメージを与えるのは事実。
「残りの人生、辛い思いはできるだけせずに、楽しく生きたい」
という母・恵美子さんの言葉もあって、がん細胞と戦わずに、共生するという方針を定められました。
また、
「手術するとなると長期の入院でしょ?タバコも吸えないし。」
「私は死ぬまで吸うわよ」
と、きっぱり言い放ったそうです。
ここまで言い放てる人ってなかなかいないと思います。
凄い覚悟のある方だったのですね。
そんな母・恵美子さんは2013年の猛暑で体が急激に衰え始めました。
元々細い体の人だったのに尚更食も細くなり、主食はアイスの「ガリガリ君」だったそうです。
なんだかお茶目ですね。(笑)
しかしこのままではダメだと本人も思ったようで、「一度しっかり入院して体力を回復したい」という意志の元近くの病院に入院。
様々な検査を行った結果、余命1か月と宣告された上にこれ以上医療的に出来ることはないとも言われてしまいます。
最終的に小池百合子さんは覚悟し、
「母を連れて帰り、普通の生活をさせる、それが一番の介護だと思ったのです」
「そもそも病院生活は彼女の性に合っていないのだと、私は考えました。母は、以前、尊厳死協会に入りたいと話していました。病気が治らないなら延命治療はしたくないと。好きなものを食べ、好きなことをして楽しく暮らしたい。不自然に長生きしたくないって。あと、病院食って……あれでしょ、えっと、例えばみんなでつつける鍋は出してくれないわけじゃない」
引用:介護ポストセブン
母・恵美子さんを家に連れて帰り在宅介護をされました。
その後、2013年9月16日に88歳で逝去されました。
まとめ
『小池百合子の母親はお嬢様育ちなのに肝っ玉母ちゃんだった!晩年も豪快!』と題し、小池百合子さんの母・恵美子さんについてまとめました。
幼少期は赤穂の塩田の地主の家に生まれ裕福な生活でしたが、青春期は戦争と重なった上に結婚してからも色々と苦労された方でした。
しかしその分余生は好きなことをして生きたいと思い、晩年最後まで人生を謳歌する選択をされたのですね。
本当に肝が太い方だと感じました。
小池百合子さんはそんな母・小池恵美子さんの影響を大きく受けて好きなことを仕事にされているのでしょうね。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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