アラビア語通訳者、ニュースキャスターを経て政治家、そして初の女性東京都知事となった小池百合子さん。
その行動力は父親譲りだったそうです。
そんな小池百合子さんの父親は闇屋家業を経て会社経営者・実業家になったのだとか。
小池百合子さんの父親はどんな方だったのか、調べてみました。
小池百合子の父はどんな人?
小池百合子さんの父親は、小池勇二郎(こいけ・ゆうじろう)さんと言いました。
実業家で政治にもとても興味がある方だったと言われています。
そんな父親に影響され、現在の小池百合子さんがいるようです。
どのような方だったのでしょうか。
小池百合子の父・小池勇二郎の経歴
とても温厚そうに見える小池勇二郎さん。
しかし、かなりやり手な実業家だったようです。
こちらが小池勇二郎さんの経歴です。
✔ 元海軍中尉
✔ 満州国国有鉄道経理部に在籍
✔ 第二次世界大戦終戦を体験
✔ 闇市で抗生物質のペニシリンの販売をしていたらしい
✔ 闇市で得た資金を元に、4つの石油会社を経営
✔ 医療関係の貿易会社も経営
✔ 1969年、第32回衆議院議員総選挙に出馬も落選
✔ 貿易会社の倒産
✔ エジプト・回路で日本料理屋「なにわ」を経営
✔ 関西経済同友会の幹事に就任
✔ 全国中小貿易連盟の理事に就任
小池勇二郎さんは戦時中、右翼的な思想団体「スメラ塾」のメンバーとして活動されていました。
「スメラ学塾」とは、「日本世界史建設戦士の養成」を目的とし、高嶋辰彦(陸軍大佐)、小島威彦(国民精神文化研究所)、仲小路彰らが中心となって設立した団体。
そしてこの父の右寄りの思想が子供達にも影響しているようです。
〈このスメラ塾で叩きこまれた、一種独特な思想や世界観を戦後も勇二郎は手放すことができず、幼い自分の息子(※小池氏の兄の勇)や娘にも語って聞かせたという。政治家・小池百合子の少々、右派的な歴史観も、ここに由来するのかもしれない〉
引用:週刊新潮
小池勇二郎は闇屋稼業で財を成した!
小池勇二郎さんは過去に第二次世界大戦を経験。
復員後は闇屋稼業をされていました。
第二次大戦直後、各地にできた闇市場などで闇取引の品物を取り扱い商売し生計を立てること。
父・小池勇二郎さんは戦後、闇市などで抗生物質のペニシリン販売する闇屋商売をしていました。
ペニシリンで儲けた後、三昌物産という貿易会社に入り専務に。
小池勇二郎さんが下宿させてもらっていた方の遠縁に東洋国際石油(現:コスモ石油)という会社の社長だった越後友之助さんがいたそうです。
そのコネで当時東洋国際石油と取引をしていた三昌物産に入社。
そして越後友之助さんのコネクションもあり、その後は闇屋稼業で設けた財で石油会社を4つも経営されました。
小池勇二郎さんの会社は「石油を扱う貿易商」で「石油を関西電力に卸していた」とされています。
さらに医療関係の貿易会社も作ったりと、一代で財を成した成功者でした。
小池勇二郎の性格
小池百合子さんの父・勇二郎さんは貿易会社の仕事で世界中を飛び回っていたそうです。
外を見てきただけに、視野の広い方でもありました。
出張先のオランドから戻ると、
など、小学生の小池百合子さんに話していたそうです。
小池勇二郎さんは戦時中「スメラ学塾」のメンバーだっただけあり政治好きの一面も。
「国家がどうあるべきか」という話をするのが小池家での日常だったそうです。
小池勇二郎さんは政治に興味があったのと、自分や家族のことは後回しにしても人助けになる事を優先して尽くす人でした。
そんなことから衆議院選に兵庫二区から立候補されました。
しかしわずか7千票しか獲得できず落選。
この頃から小池勇二郎さんが展開していたビジネスは揺らいでおり、その後倒産。
倒産後は一家そろってそれまで裕福な生活をしていた兵庫県芦屋の家を引き払い、東京・六本木のアパートに引っ越されたそうです。
小池勇二郎さんはリスク覚悟で選挙に挑まれたようです。
小池百合子さんも、父・勇二郎さんのことを以下の通り語っていました。
「実業家だった父は根っからの政治好き、憂国の情にあふれた国士でした。母も還暦をすぎて、エジプトで日本料理店を開く。ピンヒールで闊歩(かっぽ)してね。2人ともリスクテーカー(リスクをとる人)、たとえ失敗しても、それがどうしたのってタイプでした」
引用:毎日新聞
リスクテーカーでないと、4つも石油会社を経営出来ないでしょうし手広く事業もできないですね。
そしてそんなご両親を持った小池百合子さんもご両親のようにリスク覚悟でエジプト留学を経て政治の世界へと飛び込んで行かれたのが分かりますね。
小池勇二郎は時代を先どる能力があった
前述の通り、小池勇二郎さんは視野の広い方でした。
また、第二次世界大戦を経験し、戦争の原因となったのは、石油の禁輸問題だったと理解していました。

出典:神戸大学
石油の供給をストップされたせいで大戦中日本が窮地に陥ったことを痛感していたのでしょう。
大戦後の日本の成長のためには、石油産出国との繋がりが不可欠と考えるようになり、世界各国とパイプ作りに励むように。
小池勇二郎さんは時代を先どる能力に長けていました。
「国家の基本はエネルギーだ。日本は石油禁輸から戦争や南進に踏み切った。アラブ産油国とのつながりは重要だ。」
と、話していたそうです。
そういった背景から、闇市で稼いだ資金をもとに、4つもの石油会社を運営されていたようですね。
小池勇二郎の影響で小池百合子はエジプト留学を決意!
幼い頃から父・小池勇二郎さんが「石油産出国との繋がりが不可欠」と言っているのを聞いていた小池百合子さん。
ある日新聞で「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」という記事を目にして閃いたそうです。
そう決意し、エジプト留学の意思を父・勇二郎さんに伝えるとあっさり許してくれたそうです。
普通なら反対しそうですが、さすがは第二次世界大戦を経験し生き残った上に先見の明もあったのでしょうね。
仕事柄上エジプトとも縁があり、今後世界でのアラビア語の必要性についても理解していたのでしょう。
当時小池百合子さんは関西学院大学社会学部に在学中でしたが、入学から半年後には大学を中退して父親・勇二郎さんの貿易先でもあったエジプトへ留学。
エジプト・カイロ市にあるカイロ・アメリカン大学でアラビア語を修められました。
小池百合子さんのこの決断力の早さならびに行動力は父・勇二郎さんから受け継いだのでしょう。
父・小池勇二郎もエジプトへ!
父・小池勇二郎さんはとても行動力のある方で、小池百合子さんがエジプトのカイロ大学に留学した際も一緒についてきました。
エジプトではカイロの高級住宅街モハンデシーン地区に日本料理店「なにわ」を開店営業し、小池百合子さんのそばで見守り続けたそうです。
もの凄い行動力ですね!(;゚Д゚)
ちなみにこの日本料理「なにわ」はスタートから好調だったそうです。
イラン革命で国を追われたパーレビ元国王家族などもVIPでお忍びで来店していたのだとか。
エジプト・カイロでも日本の味が認められた背景には相当な努力があったのでしょう。
20年近くカイロで営業していましたが、惜しまれつつ現在は閉店されています。
父・小池勇二郎の夢は娘・小池百合子が果たす!
前述の通り小池勇二郎さんは政治に大変興味があり、政治家になりたかったようです。
その証拠にご自身が経営していた会社が窮地に陥っていても衆議院議員に出馬されました。
しかしその夢は果たされることはなく、2013年5月24日に90歳で逝去されました。
しかしその果たせなかった夢を娘の小池百合子さんがしっかり受け継いでいます。
アラビア語通訳からニュースキャスターを経て政治の世界に飛び込んだ小池百合子さんの肩書は実に膨大。
初の女性東京都知事という背景には父・小池勇二郎さんの影響が大きく関わっていたことが伺えますね。
まとめ
『小池百合子の父は闇屋家業から実業家に?エジプト留学も父の影響?』と題し、小池百合子さんの父・勇二郎さんについてまとめました。
小池百合子さんにとって父・小池勇二郎さんの存在はとても大きく、小池百合子さんの人生に大きく影響していることが分かりました。
現在政治家として全うしている小池百合子さんの姿を天国から誇らしく思っているのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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